古代マヤにおけるイデオロギーを巡る緊張と対立:メキシコ合衆国におけるエル・パルマ―ル遺跡の事例から |
講師:塚本 憲一郎(日本学術振興会/青山学院大学 特別研究員SPD)
場所:東京外国語大学本郷サテライト
従来、古代文明の権力やイデオロギーの研究対象としては「神殿・宮殿」に着目する研究者が多かったのですが、塚本先生は、共同体のほとんどの住民が関係する「広場」に着目され、メキシコのカンペチェ州にあるエル・パルマール遺跡の発掘によって権力やイデオロギーの生成過程を解明されました。この遺跡は、ティカル、カラクムル、ベカン、リオ・べック等の諸大国に囲まれた地域にあります。
塚本先生は2007年からエル・パルマールを調査しています。中央広場を発掘では、前150年~後250年頃の床を見つけました。後400年~600年には、3.6万人を収容する大広場も設けられ、この時期の大きな社会変化を示しています。
2009年には、中心部から1.3kmにある北周縁部の小さな広場に面した神殿にマヤ文字が刻まれた階段を発見しました。碑文を解読すると、726年9月13日に広場の整備とともに階段が建てられ、その建立者が王ではなくラカム(旗手)貴族の末裔である「アフパチ・ワール」という人物だとわかりました。アフパチ・ワールは自分の出自やコパン王の関係を強調する一方、エル・パルマール王には敬意を示しませんでした。また階段には蛇王朝の紋章も見つかりましたが、アフパチ・ワールとの関係を表す文字は侵食していました。しかし、崩れた階段を復元し、それを広場からどのように見えたのかを検討すると、蛇王朝の紋章は階段の中心軸にあり、それを挟むようにしてコパンとエル・パルマールの紋章が刻まれているのがわかりました。つまり、後の二王朝の同盟は蛇王朝の政治戦略で、広場はその政治戦略に主体的に参加したラカム貴族たちのイデオロギーを広めるために使われたのです。王でもない貴族が碑文の階段を設けたことは、彼らが王朝の中で相当な政治的地位にあったのを示しています。結論として、都市周辺の広場は常に王権を正統化する場所ではなく、王や貴族が権力をせめぎあい、他の都市国家間との関係から生まれたイデオロギーを巡る緊張と対立する多様な政治空間だったのです。